【一関のもち文化】

岩手県最南部の一関市は、仙台と盛岡のほぼ真ん中に位置する、北上川下流域の米どころです。

原風景

子供のころ、田舎に泊まりにいくと餅つきが楽しみでした。かまどで蒸したほかほかの餅米は土間の臼へと運ばれます。
大きな杵を振り上げるのは伯父。アネサンかぶりの伯母は、バケツで手を濡らしながら餅をたたいたり、
ひっくり返したりして水加減を調節する「合取り」。
いつもその見事な手つきに見とれていたものです。
やがてふわふわに搗きあがった餅はその場で手切り餅にされ、みんなでいただきます。
おいしさもうれしさも格別でした。
これは、私の「餅」の原風景です。
餅つきは「さあ、あなたのためにお餅をつきますよ。」との歓迎のパフォーマンス。
そして田舎では、お腹一杯にしてあげることが精一杯のおもてなしでもありました。
今でもこの地方では餅料理が最高のごちそうであり、最高のおもてなしなのです。
そのなつかしい臼を譲り受けお店に飾りました。素材はケヤキなそうです。
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もちの里

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岩手県最南部の一関市は、仙台と盛岡のほぼ真ん中に位置する、北上川下流域の米どころです。
一関地方は冠婚葬祭はもちろん、季節の行事、農作業の節目など、
何かというともちをついて食べるという習わしを受け継ぐ「もちの里」。
伊達藩時代より伝わるもち料理の多彩さは日本一を誇ります。
かつてこの地方には「もち暦」なるものがあり年間約六十日もの餅を搗く日が記されていたそうです。
事あるごとにお餅をついて、いろいろなお餅を食べていただけでなはなく、
供し方や形式にも一定の決まりがありました。
この奥深いもち文化こそ一関の誇りであり「日本一のもち処」といわれる所以です。
さらに昔から食べたい時は「くいでぇもち」と称して、もちを搗いて食べていたそうですが、
現代にあっても餅つき機の所持率は高く、各家庭で気軽にお餅をついて食べている土地柄です。

もち文化

中国の江南地方から日本に餅米が伝えられたのは古墳時代。
餅は神仏に供える供物であると同時にもちそのものに神霊が宿る食べ物と考えられ、
日本の食文化においてはハレの食物として扱われてきました。
平安時代には宮中で食されており、室町時代には公家から武士へ、やがて足利時代には庶民にも普及し始めました。
なぜそんなに餅を食べるようになったのでしょうか?
伊達藩では餅を神仏に供える事を課しましたが、白い餅は神様の分だけで貧しかった農民は「しいなもち」
を食べるしかありませんでした。
「しいなもち」とは青米、くず米、落ち穂などをこなにして雑穀と練り合わせたもの。
これをおいしく食べるための知恵と工夫が多彩なもち料理を生んだといわれています。
※しいなとはからだけで実のない籾のこと。
「しいなもち」は戦後まで続きました。
豊かな時代になりましたが、苦しい時代を支えてくれたもち料理への愛着はひとしおで、
今も最高のごちそうとして大切に受け継いでいるのです。

もち本膳

一関地方のもち料理は、搗きたてを様々な具にからめてたべますから、準備もかなり大
変です。
ご祝儀・不祝儀には「もち本膳」という格式のあるもち料理が供されます。
本膳料理は日本料理の最高の格式ですが、これをもち料理だけで調えたのがこの地方独特の「もち本膳」です。
一汁三菜が基本で4種類のもち料理が供されます。
結婚式当日の朝は、ご近所総出でお手伝いします。
花嫁の行列が到着すると、もち搗き唄と共に千本杵で餅つきが始まります。
香の物、大根おろしが添えられた漆塗りのお膳には、
まずあんこ餅のお椀が、次に変わり餅(くるみ餅、ごま餅など)、
そして具だくさんのお雑煮椀が並び祝宴が始まります。
その後さらにニの膳、三の膳へと続きます。
さすがにこのような結婚式は行われなくなりましたが、
現在も結婚式当日には餅を食べてから式場へ向かう風習は残っており、
この地方の結婚式には、もち料理が欠かせません。
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伝統もち料理と創作もち料理

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一関地方は、伝統もち料理だけでも50種類くらいあると言われています。
伝統もち料理を受け継ぐ一方では、時代にあった新しいもち料理も必要と、
一関では平成2年から餅のアイデア料理コンテスト
「もちりんぴっく」を開催していましたので、
新しいもち料理も含めると、今ではその種類は300以上ともいわれます。
毎月一日は「つきはじめ」にかけた「もちの日」。
この日は当店もひと口サイズの「創作もち」をご来店の皆様にサービスしております。
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